【 概 要 】−源頼家は寿永元年(1182)、鎌倉時代初代将軍源頼朝と北条政子との長男(頼朝の子供としては2男)として生れました。建久10年(1199)に頼朝が死去すると、18歳で源氏宗家を継ぎ、2代目将軍に就任しています。その直後には頼家の左中将昇進の手続きを取った土御門通親の襲撃を左馬頭・源隆保が自邸に武士を集めて画策した事が発覚し後藤基清・中原政経・小野義成が捕縛された「三左衛門事件」が発生し、家督相続により不穏な世情となっています。
頼家は将軍職を担うにはまだまだ経験不足と判断した幕府用人は13人の有力御家人による合議制により幕府を運営する事を決定します。しかし、その決定に頼家は不服だった事から、近臣のみを重用し、合議制で選定された御家人とは距離を取り対立を深めます(鎌倉幕府の正式な歴史書である「吾妻鏡」では頼家の誹謗が羅列していますが、後の権力者である北条家の正当性を強調する為に誇張もしくは捏造したものが多いと推定されています)。
そのような中、梶原景時が御家人の中で頼家の弟である千幡(後の源実朝)を擁立する動きがある事を頼家に進言すると、逆に反対勢力の攻勢により景時は蟄居に追い込まれ、その後復権を目指したものの叶わず京都に向かう途中に一家共々暗殺され梶原家は滅亡します。これにより、建仁元年(1201)梶原家に近い城氏が幕府打倒の反乱(建仁の乱)を起こし、京都では城長茂、本領がある越後では甥の城資盛・姉妹の坂額御前らが挙兵しますが、何れも鎮圧されます。
建仁3年(1203)に謀反を起こした阿野全成を捕縛、その後、体調を崩した頼家が政務を離れると、反対側はその間隙を突いて弟の千幡を継がせ頼家を排斥、さらに頼家の乳母父である比企能員も北条時政によって謀殺されます(この比企能員の変の際には頼家の嫡男である一幡も撲殺されています)。頼家の病状が回復し、事態を把握すると直ちに北条時政討伐を命じますが、従う御家人がおらず、名実共に失脚します。
頼家は伊豆修禅寺(静岡県伊豆市修善寺温泉)に幽閉され、元久元年(1204)入浴中に北条方に攻められ撲殺されています。享年23年。修善寺の境内に程近い当地には北条政子により指月殿が造営され、指月殿の境内には源頼家の墓碑が建立されています。
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