山中城(三島市)概要: 山中城は静岡県三島市山中新田に築城された城郭です。山中城は戦国時代の永禄年間(1558〜1569年)、北条氏康が小田原城の最終防衛ラインである「箱根10城」の中心的城郭として築いたもので、天正17年(1589)には豊臣秀吉に備えさらに増築改修が重ねられ要所には櫓が建てられました。
山中城は中世山城の最終形とも言える城郭で本丸を中心に2の丸、3の丸、西の丸、出丸などを配し、それらを囲むように空堀(幅10〜15m・深さ8余m)、水堀、土塁(高さ3m余)を備え架け橋や土橋などで曲輪間の行動を迅速にしました。籠城に対しても備え、多くの井戸や用水池など飲料水の確保に工夫が見られます。天正18年(1590)、豊臣秀次が総大将となり中村一氏、田中吉政、堀尾吉晴、山内一豊、一柳直末ら7万の軍勢が岱崎出丸へ進軍、それに対する山中城には総大将に北条氏勝、山中城主松田康長、副将間宮康俊ら4千の城兵が守ります。
小田原の役では北条氏側の多くの家臣達が小田原城守備に廻った為、持城には数百人規模しか残されておらず、多くの城が開城又は小規模の戦闘だった中、山中城の攻防戦は数少ない激戦となった戦で、半日で落城してにも関わらず、北条方は松田康長、間宮康俊などほぼ壊滅(北条氏勝は玉縄城に落ち延びたと云われています。)、豊臣方も先鋒の一柳直末が戦死した他数千の死傷者を出したと云われています。
北条氏が滅亡すると山中城は廃城となった為、その遺構がほぼ完全な形で残される事になりました。山中城は戦国時代末期の大規模山城として学術的にも貴重なものとされ昭和5年(1930)に国指定史跡に指定され、平成18年(2006)には日本100名城の1つに選定されています。
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