横須賀城(掛川市)概要: 横須賀城は天正6年から8年(1578〜1580年)にかけて徳川家康の命により大須賀康高が築いたのが始まりとされ、武田方の高天神城攻略の最重要拠点とされました。高天神城が落城し廃城となると、横須賀城は交通の要衝で遠州灘に近接していたことから、当地域の中心的な城として重要視され、大須賀康高が引き続き城主として配されます。天正18年(1590)、家康が関東に移封になると大須賀氏も随行し徳川家の領内である久留里城へ移り、代わって渡瀬繁詮が横須賀城の城主になりますが文禄4年(1595)の豊臣秀次の事件に連座して改易され、家臣である有馬豊氏が領内を引き継ぎます。慶長5年(1600)の関が原の戦いで豊氏は東軍に付いた為、福知山城(京都府福知山市)に6万石で移封となり、久留里から大須賀忠政が改めて6万石で入封し横須賀藩を立藩します。忠政は横須賀城を近代的な城郭へ大改修し、城下町の整備や検地など横須賀藩初期の基礎を固めます。
忠政は徳川家康の重臣榊原康政の長男から大須賀家に養子に入った人物だったことから元和元年(1616)、榊原家が嗣子無くして死去すると2代忠次が榊原家を継ぐ事となり館林藩(群馬県館林市)に移封となります。元和5年(1619)、松平重勝が関宿藩から2万6千石で入封しますが、2代重忠が元和7年(1621)、上山藩(山形県上山市)に移封となり井上正就が5万2千5百石で入封します。正保2年(1645)、正就が笠間藩(茨城県笠間市)に移封になると岡崎藩(愛知県岡崎市)から本多利長が5万石で入封、しかし、悪政を行った為、天和2年(1682)に改易となります。代わって西尾忠成が小諸藩(長野県小諸市)から2万5千石で入封し8代続き明治維新を迎えます。
横須賀城の縄張り: 横須賀城は平山城で本丸には3層4階の天守閣が配され、主要部には天竜川の自然石を積んだ玉石積みの石垣を用いました。大手門は東西2ヶ所あり断崖や堀などを巧みに配置し天然の要害を成し両頭の城の異名があります。本丸の西側には西の丸、一段下がった北側には北の丸があり、内堀を挟んだ西側には二の丸、二の丸の入口である西大手門には2層櫓が隣接していました。本丸から三日月池や牛池を挟んだ東側に三の丸があり東大手門は枡形門で2層の太鼓櫓が設けられていました。築城当時は城に近接して遠州灘がありましたが、度重なる地震により地形が隆起して現在は海辺までは2キロ程離れてしまいました。特に宝永4年(1676)の宝永大地震は風景が一変したとされ、城下の商家の便宜を図る為に横須賀城と太田川河口に位置する福田湊まで運河が築造され小船によって物資が往来しました。
横須賀城の遺構: 明治2年(1869)に廃城になり、明治6年(1973)にはほとんどの建物が払い下げとなり、不開門(掛川市指定文化財)が撰要寺に、搦手門(掛川市指定文化財)が本源寺に町番所(掛川市指定文化財)が市役所大須賀支所に、旧御殿の一部が油山寺(袋井市村松)に移築されています。その後城跡は荒廃と宅地化が進み水掘なども埋め立てられ昭和46年(1971)には本丸周辺もその対象となりましたが、大切な歴史的遺産を後世に残す必要性が求められた事から公園として整備され昭和56年(1981)には国指定史跡に指定されています。
【 搦手門:概要 】-搦手門は江戸時代中期に建てられたもので、明治時代初期に横須賀城が廃城になると本源寺(静岡県掛川市西大渕)の山門として現在地に移築されました。切妻、桟瓦葺、一間一戸、薬医門、江戸時代中期の城門建築の遺構として貴重な事から昭和48年(1973)3月28日に掛川市指定文化財(建造物)に指定されています。
【 町番所:概要 】-町番所は安政3年(1856)に建てられたもので、横須賀城の東追手門の出入りを管理する為に設けられた施設です。明治時代初期に横須賀城が廃城になると民間に払い下げられ、昭和55年(1980)に現在地(静岡県掛川市西大渕)に移築され、大須賀町歴史民俗資料館となっています。町番所は木造平屋建、寄棟、桟瓦葺、平入、江戸時代末期の番所建築の遺構として貴重な事から昭和55年(1980)4月1日に掛川市指定文化財(建造物)に指定されています。
【 不開門:概要 】-不開門は12代横須賀城の城主本多利長(正保2:1645年〜天和2年:1682年)の時代に建築されたもので、明治時代初期に横須賀城が廃城になると撰要寺(静岡県掛川市山崎)の山門として現在地に移築されました。不開門は切妻、本瓦葺、三間一戸、潜り戸付き、総松材造り、江戸時代初期の城門建築の遺構として貴重な事から昭和48年(1973)3月28日に掛川市指定文化財(建造物)に指定されています。
【 横須賀城御殿:概要 】-油山寺(静岡県袋井市村松)の白書院は江戸時代中期の元禄12年(1699)に横須賀城の御殿として建てられたもので、江戸時代末期の安政6年(1859)に当時の横須賀藩主西尾隠岐守忠受が油山寺印範典和尚に対して寄進したのを受けて現在地に移築されました。御殿は木造平屋建て、寄棟、平入、桟瓦葺、桁行7間、梁間3間半、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、正面と向かって右側の外側に板張りの縁が廻り、逆に左側と奥側の一部は畳敷きの廊下が配されています。中央の座敷が中心的な部屋で、畳敷き10帖、床の間、脇床違い棚付、江戸時代中期の御殿建築の遺構として貴重な事から昭和44年(1969)に静岡県指定文化財に指定されています。
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