旭姫:概要

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概要・歴史・観光・見所
旭姫(瑞龍寺)

【 概 要 】−旭姫(朝日姫)は豊臣秀吉の異父妹で、天文12年(1543)に竹阿弥となか(後の大政所)との娘として産まれました。当初は佐治日向守(農家→武士)に嫁ぎましたが、その後、織田家の家臣だった副田甚兵衛吉成に嫁いだとされます。天正11年(1584)、羽柴秀吉は安土城(滋賀県近江八幡市安土町)から織田信雄(織田信長の次男)を強制退去させると、信雄は秀吉から離れ徳川家康と同盟を結び、天正12年(1585)に家臣でありながら秀吉に友好的だった津川義冬、岡田重孝、浅井長時の3人を斬首した事で対立が決定的となり「小牧・長久手の戦い」が発生しました。

戦いは半年間にわたり、主要な合戦では徳川軍に有利だったものの、大軍である羽柴軍を崩すには至らず、膠着状態が続き、秀吉軍が信雄の本領に侵攻した事で、戦局が大きく秀吉方に傾き信雄との和睦が成立しました。これにより家康は大義名分を失い、拠点としていた小牧山城(愛知県小牧市)を退去し本領に引き上げています。しかし、秀吉と家康との間は対立したままで、天正13年(1586)には秀吉により徳川征伐が計画され、実行寸前でしたが、11月29日に天正地震が発生した事で計画は頓挫し、徳川家との懐柔が模索されるようになりました。

その一環として天正14年(1586)、秀吉の命により旭姫(朝日姫)は強制的に離縁させられ、徳川家康の正室(継室)として徳川家に嫁がされました。朝日姫には駿河府中(静岡県静岡市)に屋敷が与えられ(駿河御前と呼ばれるようになっています)、丁重に扱われたものの、家康は秀吉の望んだ上洛には応じず、さらに秀吉の生母である大政所を旭姫(朝日姫)に合わせる事を理由に徳川方に事実上の人質として差し出し、ようやく家康は上洛し秀吉との講和しました。

講和が成立すると大政所は秀吉の元に帰国、天正16年(1588)に大政所が重病になると、旭姫(朝日姫)は見舞いの為に上洛し、同年に駿河に帰国しています。その後の記録は不詳ですが天正18年(1590)に聚楽第(京都府京都市上京区)で旭姫(朝日姫)は病死しています。享年47歳。戒名:瑞龍寺殿光室総旭大禅定尼。菩提は東福寺(京都府京都市)に葬むられ、後に家康から菩提寺となる南明院(東福寺塔頭。南明院での戒名は南明院殿光室宗王大禅尼)が創建されています。駿河では瑞龍寺(静岡県静岡市)が菩提寺とされ、瑞龍寺境内には旭姫(朝日姫)の供養塔が建立され寺領の寄進を受けています。

瑞龍寺:写真
旭姫(朝日姫)と縁がある瑞龍寺 旭姫(朝日姫)と縁がある瑞龍寺 旭姫(朝日姫)と縁がある瑞龍寺 旭姫(朝日姫)と縁がある瑞龍寺



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