本多家:概要

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概要・歴史・観光・見所
本多家(蓮生寺)

【 概 要 】駿河田中藩の藩主本多家の領内菩提寺は蓮生寺(静岡県藤枝市)ですが、多くの藩主は江戸の菩提寺である徳本寺(東京都台東区西浅草)に埋葬され、蓮生寺には田中城の城内で亡くなった本多家縁の17基の墓碑が建立され、藩主としては2代藩主本多正珍のみとなっています。本多正珍は宝暦7年(1710)に田中藩初代藩主本多正矩の3男として生まれ、享保20年(1735)に正矩の死去に伴い本多家の家督を継ぎ田中藩主に就任しています。

幕政での要職を歴任し、元文2年(1737)に奏者番、寺社奉行、延享3年(1746)には老中に就任しています。宝暦4年(1754)に発生した美濃国郡上藩(岐阜県郡上市八幡町)での一揆は、藩主である金森頼錦が行った過剰な税制の農民の不満からで、当初は頼錦も農民の訴えを聞き入れようとしましたが、藩財政の逼迫化を懸念した藩の役人が、天領代官や幕府の役人を利用して増税政策を正当化させ強引に進め為、農民達から激しい反発が起こり日本三大一揆に数えられる「郡上一揆」に発展しました。

幕府の裁定は厳しく、金森家は改易の上、藩主頼錦は盛岡藩に流罪、郡上藩に関わった幕府関係者も数多く断罪され、本多正珍の娘が金森頼錦の婚約者(娘は既に死去していたものの、舅として見做された。)だった関係から便宜を図ったとの嫌疑をかけられ、宝暦8年(1758)に老中を免職し逼塞を命じられています(幕政内の権力闘争に敗れたとも)。安永2年(1773)に隠居。天明6年(1786)に死去し菩提は蓮生寺に葬られています。享年77歳。戒名:克享院殿受明蓮生寺。

蓮生寺:写真
本多家と縁がある蓮生寺 本多家と縁がある蓮生寺 本多家と縁がある蓮生寺 本多家と縁がある蓮生寺



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