蒲原宿(東海道)・宿場町・町並み

  静岡県:歴史・観光・見所(ホーム)>蒲原宿(東海道)
写  真 備  考
蒲原宿(東海道)
スポンサーサイト

【蒲原宿(東海道)】蒲原宿は静岡県に存在する東海道の宿場町の中では伝統的な町並みが残されています。古くから富士川を控え、甲州と太平洋を結ぶ街道の結束点の地である事から交通の要衝として重要視され鎌倉時代には既に宿場町として整備されてきました(東海道の道筋は朝廷のある京都と、武家政権の中心である鎌倉を結ぶ街道として重要視された)。戦国時代にも徳川家康が蒲原御殿を設けるなど引き続き重要視されたようで徳川家光が死去するまで将軍家の施設として維持されました。

江戸時代に入り正式に東海道が開かれると、宿場町として整備され改めて町割が行われたと思われます。現在でも一部跡地が残されていますが、蒲原宿の東西の端には木戸が設けられ、東木戸は僅かに枡形で常夜塔が設けられ、西木戸は余り面影がありませんが、隣接する「茄子屋の辻」では高松藩の大久保甚太夫と薩摩藩が乱闘になり70名に及ぶ死傷者が出た事件の舞台となりました。江戸時代後期には本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠42軒、問屋場1軒、家屋509軒、人口2400人を数え、歌川広重が製作した東海道五拾三次の中で唯一の雪景色を描いた「蒲原夜之雪」の舞台にもなりました。明治時代以降も宿場町内は極端な近代化が行われず奇跡的に多くの町屋建築が残されました。

特に志田家住宅は安政元年(1854)の安政大地震直後の安政5年(1855)に再建された町屋建築として貴重な事から国登録有形文化財に登録されています。志田家は「ヤマロク」の屋号を掲げ昭和初期まで味噌や醤油などの醸造業を生業とした豪商で主屋だけでなく醤油工場も略当時のままの姿で残され現在は「東海道町民生活歴史館」として一般公開されています。その他にも近代洋風建築である五十嵐歯科医院(大正3年建築、国登録有形文化財)や、町屋建築の遺構である和泉屋(旅籠:天保年間建築、国登録有形文化財)、吉田家住宅(屋号:僊菓堂、国登録有形文化財)、佐藤家住宅 、3階建の土蔵建築である渡邊家土蔵(天保9年建築、静岡市指定文化財)などの古建築が点在しています。

スポンサーサイト
蒲原宿(東海道)
蒲原宿(東海道)
蒲原宿(東海道)
 静岡県:伝統的・町並み・探訪|蒲原宿下田港
 ※ 相談や質問は大変失礼ですが、メールのみとさせていただきます。 回答によって不都合や不利益をこうむっても当サイトは一切責任を負いません。又、回答を直接的(当サイトの名前を使って)に交渉や請求の手段とすることはご遠慮くださるようお願い申し上げます。※プライバシーポリシーはこちらです。