下田港・町並み

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下田港
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【下田港】−下田港(静岡県下田市)は古くからの良港で、天正16年(1588)に小田原北条氏の家臣、清水康英(伊豆衆二十九人衆の筆頭)が下田城を築きその城下町としても整備されました。天正18年(1590)の小田原の陣では康英は下田城に立て籠もり50日間にわたり籠城戦が繰り広げましたが遂に開城しています。その後、関東に徳川家康が移封となり、それに伴い家康の家臣戸田忠次が下田城に配され、本格的に整備されました。

江戸時代に入ると天領となり、太平洋側の海路の要衝(海上航路の風待ちの港、)として遠見番所や船改番所、下田奉行所などの幕府の出先機関が設けられ入津廻船3千艘ともいわれ大きく発展しました。特に東西航路を利用した船舶の荷物は下田港で一端改められ、再び目的地まで向った事から海上の関所的な存在となり「伊豆の下田に長居はおよし、縞の財布が空になる」などと歌われました。東海道からは下田街道が町まで伸び、多くの物資や旅人、商人が往来しました。

江戸時代末期には外交の舞台となり、嘉永7年(1854)に日米和親条約が締結されると下田港が開港、了仙寺(国指定史跡:ペリー一行の応接所)で下田条約が、長楽寺(下田市指定史跡)で日露和親条約が調印(日本全権筒井政憲・川路聖謨とロシア使節プチャーチンの間で交渉)され玉泉寺(国指定史跡)は日本最初の米国総領事館(初代駐日本アメリカ合衆国弁理公使:タウンゼント・ハリス)となりました。又、多くの外国船が入港した事から、米国へ密入国して遊学をもくろんだ吉田松陰と金子重輔が捕縛された地でもあります(吉田松陰寓寄処は静岡県指定史跡)。現在の残されている古民家の多くは嘉永7年(1854)の安政の大地震で発生した大津波で下田の町が大破した後に再建されたもので、外国に開かれた町としての美観が考慮され「なまこ壁」で仕上げられたものが多い事が大きな特徴の1つとなっています。現在も随所に良好な港町の町並みが残され往時の雰囲気が残されています。

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