十三士の墓(伊豆市)概要: 案内板によると「 北条氏との確執で、病気を理由に修禅寺に配流された頼家は、元久元年(1204)7月18日、入浴中に暗殺された。吾妻鏡(鎌倉時代史書)によると、この6日後、頼家の家臣らは謀反を企てたが、挙兵以前に発覚して、相州金窪太郎行親らに殺されたことが記されている。この墓はその頼家の家臣13名の墓と伝えられている。頼家と運命を共にしたこれら家臣の名前は判っていないが、全国的にある十三塚の一例との説もある。この墓は元々ここより東へ200m程の麓にあったが、台風被害により平成17年(2005年)7月17日にこの地に移築された。 伊豆市 」とあります。
源頼家が将軍に就任したのが建久10年(1199)の18歳と時で、武芸に秀でていたものの、若輩という事で家臣達からは軽んじられ3カ月後には裁断権が剥奪され有力御家人による合議制が敷かれました。反発した頼家は妻方の実家である比企氏などを引き込み派閥を形成し対抗しましたが、各個撃破の対象となり孤立化を深めると、病気を理由として修禅寺に幽閉され、弟である千幡(源実朝)を擁立した北条時政が実権を握りました。時政はさらに頼家の暗殺を画策し、頼家が温泉に浸かっている最中に刺客により刺殺されたとされます。鎌倉時代の歴史書である吾妻鏡は正式なものですが、実権を握った北条家を正当化するものでもあり、詳細は不詳で十三士は殉死したとも伝えられています。
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