源頼家の墓(修善寺温泉)概要: 源頼家は源頼朝の嫡男で元治元年(1199)、 頼朝が死去すると18歳で鎌倉幕府の2代目将軍に着任しました。頼家は若年で将軍職に着き、幕府も成立後間もない事もあり、御家人内の権力争いに巻き込まれ、着任の3ヶ月後には北条氏ら有力御家人による合議制が施行され将軍職が疎んじられるようになりなります。反発した頼家は比企氏ともに復権しようとしますが、北条氏は弟の実朝を擁立、北条氏の攻撃により比企氏が滅亡すると急速に北条氏の勢力が拡大し、頼家は失脚同様に修禅寺に幽閉されます。
元久元年(1204)、頼家が入浴中(虎溪橋に隣接する箱湯)に北条時政が兵を差し向け暗殺、享年23歳。母親である北条政子は頼家の菩提を弔う為、指月殿を建立し宋版大蔵経や釈迦三尊繍仏などを奉納しています。指月殿に隣接する現在の供養塔は元禄16年(1704)の頼家500周忌に、当時の修禅寺住職筏山智船和尚が建立したもので、背後にある2基の五輪塔が頼家の墓碑と伝えられています。又、俳人正岡子規が明治25年(1892)に修善寺温泉に湯治の際、頼家の墓を参拝し「此の里に かなしきものの 二つあり 頼家の墓と 範頼の墓と」の句を残しています。
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