韮山城(伊豆の国市)概要: 韮山城の築城は文明年間(1469〜1486年)、足利政知(堀越公方)の家臣外山豊前守が築いたのが始まりと伝えられています。延徳3年(1491)、伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)が当時の堀越公方茶々丸(政知の子)を滅ぼし伊豆を掌握すると、伊勢氏によって本格的な城郭として整備されます。
小田原城(神奈川県小田原市)に移るまでは後北条氏の実質的な本拠として整備拡充が行われ、伊豆の統一や相模進出など後北条氏の基礎が韮山城で固められました。
早雲が小田原城を奪取し、本拠を小田原に移した後は早雲の隠居城として機能し、領内西方の軍事的拠点として重要視されました。永禄年間(1558〜1570年)頃に北条氏規(当主氏康の四男)が城主となり伊豆衆や三浦衆など伊豆半島を統括する立場となています。
天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原の役においては総大将である織田信雄を中心とする細川忠興、蒲生氏郷、蜂須賀家政、福島正則が主力となる豊臣勢4万4千の軍勢に対し韮山城は城主北条氏規を筆頭に3千6百、圧倒的な不利な中約100日間持ち応えた後開城しました。北条氏規は特に北条家の外交に力を発揮し織田家や、徳川家康、豊臣秀吉とも面識があります。
韮山城の戦いにおいては、少ない城兵を巧みに采配したと見られ、10倍以上の兵力差があったものの、力攻めでの落城は免れ、結局健在なのは本城である小田原城と忍城、韮山城だけとなり、家康からの度重なる説得に答える形で開城に応じたそうです。北条家が降伏後、領地は徳川家の所領となり韮山城には内藤信成が入りますが慶長6年(1601)移封となり、韮山城は廃城となります。
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