沼津城(三枚橋城)概要: 沼津城は当初三枚橋城と称し、天正7年(1579)に 武田勝頼が小田原北条氏領の戦略的拠点として築かれました(元亀元年:1570年に武田信玄によって築かれたとも)。沼津の地は北条領に隣接し太平洋に面する重要な要地で同じく北条方の戸倉城と対面する形を取り、家臣である高坂源五郎(春日昌元)、曽根昌長、堀内政豊等を配して緊張状態が続きました。天正10年(1582)、織田信長の甲斐侵攻により武田家が滅ぶと北条家が当地まで侵攻し、当時武田家の持城だった戸倉城が落城したのを受け、自ら火をかけ自領に撤退、三枚橋城は徳川家が摂取し松平康親、松平忠吉が城主となります。
沼津が徳川領になると、今度は徳川家と北条家との間で三枚橋城の攻防戦が繰り広げられました。天正18年(1590)の小田原の役では豊臣軍の拠点の1つとして機能し津軽領主である津軽為信が三枚橋城で豊臣秀吉に謁見し参陣を認められています。北条家が滅びると徳川家が関東に移封となり駿河には中村一氏が15万石で入り三枚橋城には弟である一栄が3万石で配されます。江戸時代に入った慶長6年(1601)、大久保忠佐が2万石で三枚橋城主となり沼津藩が立藩、しかし慶長19年(1614)忠佐が死去すると断絶し三枚橋城も廃城となり城郭は破却されました。
安永6年(1777)、沼津2万石で入封した水野忠友は三枚橋城とほぼ同位置に沼津城を築城、本丸を中心に同心円上に二の丸、三の丸を配し、概ね3重の水掘で囲い東南部のみが狩野川を天然の外堀に見立てていました。本丸には3層櫓を設けて天守閣の代わりとし二の丸には御殿が置かれました。城の規模は三枚橋城の半分程度とされ8代にわたり水野家の居城となりました。その後、水野家は加増を重ね最終的には5万石となっています。慶応4年(1868)水野氏が転封すると静岡藩の所有となり城跡には沼津兵学校が設置されましたが明治4年(1871)に廃藩置県が施行されると兵学校も廃校となり払い下げとなりました。その後、城内全域が民間に払い下げられ、堀は埋め立てられ建物は破却され、唯一の遺構として城門の1つが光長寺辻之坊の山門として移築されています。
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