井出家住宅(富士宮市)概要: 井出家は藤原南家の後裔とされ祖とされる二階堂左衛門尉正重が駿河国富士郡井出郷の領し、その子供である藤九郎政種が地名から井出を名乗ったのが始まりとされます。
その後は長く当地の小豪族として支配し、鎌倉時代の歴史書である「吾妻鏡」では建久4年(1193)に源頼朝が富士で巻狩の際に井出館が宿営地として利用された事が記載されています。室町時代に入ると駿河守護職となった今川家に従属し、度々今川軍として戦へも出陣し領地の安堵状や感謝状などが発給されています。
今川家が滅ぶと一族は武田家や北条家などに分散し、当家は江戸時代を前後して帰農したとされ、以降は周辺地域の名主などを歴任する上層農家として大きな影響力を持ちました。
現在残されている高麗門と2棟の長屋の建築年は不詳ですが宅邸が安永5年(1776)と寛政9年(1797)に火災により焼失している記録がある為、それを前後にして再建されたものと考えられています。高麗門は本柱の背後に控え柱を設け切妻屋根で繋ぐ城郭などで採用される格式の高い門の形式の1つで柱の間の間口が約2.7m(柱の真々1間:8.98尺)、切妻、金属板葺(元トントン葺:こけら葺)、北側の袖壁にくぐり戸が付いています。
南棟(長屋)は木造平屋建て、北側が入母屋、南側寄棟、茅葺、桁行約15.6m(44.8尺)、梁間約3.9m(13尺)、基礎は亀甲積の石垣、腰壁は下見板張縦押縁押え、外壁は真壁造、白漆喰仕上げ、せがい造り、内部は馬屋(2室)と便所、堆肥置き場として利用されていました。
北棟は木造平屋建て、北側が寄棟、南側入母屋、茅葺、桁行約14.5m(48尺)、梁間約3.9m(13尺)、基礎は亀甲積の石垣、腰壁は下見板張縦押縁押え、外壁は真壁造、白漆喰仕上げ、せがい造り、内部は下男部屋や蔵、作業場として利用されていました。井出家高麗門及び長屋は近世上層農家建築の遺構として貴重な存在で平成7年(1995)に富士宮市指定文化財に指定されています。
高麗門を簡単に説明した動画
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-富士宮市教育委員会
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