西来院(浜松市)概要: 高松山西来院は静岡県浜松市中区広沢2丁目に境内を構えている曹洞宗の寺院です。
西来院は正長元年(1428)、華蔵義曇禅師(広沢山普済寺開山)13人の弟子の1人月窓義運禅師が開山しました。徳川家康の正室、築山御前の菩提寺としても知られ境内には廟所である「月窟廟」が建立されています。
築山御前は天文11年(1542)、今川家の重臣である関口親永と今川義元の妹との子供で弘治3年(1557)に今川義元の養女として松平元信(後の徳川家康)と結婚しています。当時の家康は今川家の人質だった事もあり築山御前の方が強い立場にありましたが永禄3年(1560)、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れ討死にすると今川家が衰微し、さらに家康は築山御前にとっての仇である信長と同盟を結んだ事で立場を失います。
又、家康が側室お万の方を寵愛した事で夫婦仲も冷え切り、愛息信康には仇である信長の娘、徳姫と婚姻を結んだ事もあり嫁姑関係も大変悪かったとされます。
真意の程は分かりませんが築山御前は復権を果たす為武田家縁の娘を信康の側室に迎え、武田勝頼に内通し徳川家の乗っ取りを画策したとされ、それを徳姫が12の罪状としてまとめた書状を実家である安土城(滋賀県近江八幡市安土町)の信長に送り届けます。信長はすぐさま家康に命じて築山殿と信康の断罪を要求、家康の命で築山殿は浜名湖湖畔で斬首、享年38歳、信康は二俣城に謹慎後に自刃、享年21歳。
この騒動は信康が余りにも優秀だった為信長が恐れて画策したとも、険悪な嫁姑関係から徳姫が画策したとも、信康が家康に対して反抗的で、家康の独断で築山殿、信康を断罪したなど諸説あり事実は不詳のままとされます。
築山御前の菩提は西来院に葬られ戒名「清池院殿譚月秋天大禅定法尼」(当時の戒名:西光院殿政岩秀貞大姉を改称)が彫られた墓碑と霊廟が建立されましたが戦災で霊廟が焼失し、昭和53年(築山御前の400年忌)に再建されました。
境内には月窟廟の他に浜松市内最古で最大の六地蔵や家康の異父弟松平源三郎康俊(戒名:善照院殿泉月澄清大居士)、水野元彰の墓碑などが建立されています。山号:高松山。宗派:曹洞宗。本尊:釈迦牟尼仏。
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-浜松市
・ 現地案内板(築山御前)
|
|