宗源院(浜松市)概要: 宝蔵山宗源院の創建は応永23年(1416)、在天弘雲和尚(華蔵義曇の法弟)が開山したのが始まりとされます。当初は大鱸山宗源院と称し浜松荘の領主吉良家と関係が深く、境内も出城としての機能も備えられていたとされます。
室町時代に入ると駿河守護職の今川家が庇護し、特に今川義元は自らが開基となり堂宇を再建し境内の整備い弘治2年(1556)には旧来迎寺領300石が寄進されています(寺宝である義元・氏真(義元の子)の判物(安堵状)は浜松市指定文化財に指定されています)。
徳川家康が岡崎城から浜松城に入った際には境内前に的場を設けて弓の稽古を行ったとされ、江戸時代には普済寺十三派の1つとして幕府から庇護され3万石の格式、寺領30石、境内7万坪、末寺22ヶ寺を擁する大寺として寺運が隆盛しました(現在の末寺は神宮寺、林泉寺、西見寺、如意寺、養泉寺)。
境内にも七堂伽藍が建立されていましたが元亀3年(1573)の三方原合戦の兵火や江戸時代中期、明治時代の火災により堂宇が焼失し次第に衰微しました。
宗源院境内には成瀬藤蔵正義(徳川家康の家臣、三方原合戦の際は、旗奉行として家康本陣の守備を担い、武田方の馬場信春隊が家康本陣に突入した際に家康の身代わりで討死したとされます。
正義が戦死した場所は成瀬谷と呼ばれています。)や多世姫(浜松藩主松平信祝の娘、享年18歳、戒名:芳春院殿梅印智光大姉)、外山小作正重(三方原合戦の際、旗手として討死)、遠藤右近(三方原合戦で討死)、小笠原源太夫の千代子夫人などの墓碑が建立されています。山号:宝蔵山。宗派:曹洞宗。本尊:虚空蔵菩薩、釈迦牟尼佛、普賢菩薩。
|