浜松市(歴史)概要: 浜松市の歴史は古く、縄文時代後期の蜆塚遺跡では28戸の住居跡と30余の人骨、静岡県内では例のない環状貝塚が発見され注目されています。弥生時代の遺跡としては伊場遺跡があり、土器、土製品、石製品、金属製品、骨角製品、木製品、木簡、絵馬、墨書土器など多数の出土品が発見されています。平安時代に入ると、「波万万津」との地名が散見されるようになり官道である東海道の栗原駅は伊場付近にあったと推定されています。
鎌倉時代には引馬宿が設けられ引き続き交通の要衝として重要視されました。室町時代に入ると今川氏が駿河の守護となり、戦国時代には今川家の家臣飯尾乗連が曳馬城の城主となり浜松市周辺を支配します。桶狭間の戦いで今川義元が討死すると飯尾連竜は徳川家康に組みした為、今川氏真の猛攻を受け再び今川家に降伏、しかし、今度は徳川家康に攻められ曳馬城は落城し当時の城主お田鶴の方は侍女18名と共に討ち死にしています。
徳川家康は遠江を支配するにあたって浜松を重要視し元亀元年(1570)、徳川家康が曳馬城を拡張する形で浜松城を築城し居城を岡崎城(愛知県岡崎市)から移しています。家康は駿府城に移るまで17年間浜松城を居城とし姉川や三方ヶ原、長篠、小牧・長久手など戦い抜き大大名としての地位を確立します。家康が駿府城に移ると、徳川家譜代家臣が城代を歴任し天正18年(1590)に家康が関東に移封になると豊臣家家臣の堀尾吉晴が12万石で入封します。
慶長5年(1600)の関が原の戦いで堀尾吉晴は月山富田城(島根県安来市)に移封となると金山城(岐阜県可児市)から松平忠頼が5万石で入封し浜松藩を立藩します。慶長14年(1609)に松平家が改易になると水戸藩(茨城県水戸市)から水野重央が2万5千石で入封しています。
元和5年(1619)に紀伊新宮藩に移封になると岩槻藩(埼玉県さいたま市岩槻区)から高力忠房が3万5千石で入封、寛永15年(1638)に島原藩(長崎県島原市)に移封になると岩村藩(岐阜県恵那市岩村町)から松平乗寿が3万6千石で入封、寛永21年(1644)に館林藩(群馬県館林市)に移封になると西尾藩(愛知県西尾市)から太田資宗が3万5千石で入封しています。
延宝6年(1678)に2代太田資次が大坂城代として移封になると、青山宗俊が5万石で入封。元禄15年(1702)に3代青山忠重が亀山藩(京都府亀山市)に移封になると笠間藩(茨城県笠間市)から松平資俊が7万石で入封、享保14年(1729)に2代松平資訓が吉田藩(愛知県豊橋市)に移封になると松平信祝が7万石で入封しています。
寛延2年(1749)に2代松平信復が吉田藩に移封になると松平資訓が入封、宝暦8年(1758)に宮津藩(京都府宮津市)に移封になると井上正経が6万石で入封、文化14年(1817)に3代井上正甫が棚倉藩(福島県棚倉町)に移封になると唐津藩(佐賀県唐津市)から水野忠邦が6万石で入封しています。
弘化2年(1845)に2代水野忠精が山形藩(山形県山形市)に移封になると館林藩(群馬県館林市)から井上正春が6万石で入封し、以後、井上氏が藩主を歴任し明治維新を迎えています。
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