築山御前:概要

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概要・歴史・観光・見所
築山御前(西来院)

【 概 要 】−築山殿(瀬名姫・瀬名御前)は徳川家康の正室だった人物で、天文11年(1542)に今川刑部少輔家の当主である関口(瀬名)親永と今川義元の妹又は井伊直平の娘の子供として生まれたとされます。弘治3年(1557)に形式上今川義元の養女としてから後に徳川家康となる松平元信と結婚、当初の仲は良かったようで永禄2年(1559)に嫡男松平信康、永禄3年(1560)に長女亀姫を生んでいます。永禄3年(1560)、桶狭間の戦いで元信(家康)は今川方の属将として参陣していましたが、織田信長により今川義元が討たれると、今川勢は自領に引き上げた為、その間隙を突いて元信は松平家の本城である岡崎城(愛知県岡崎市)に入り今川家から独立を画策します。

元信はすぐさま織田信長と同盟を結び、三河国を領する国人領主達の引き抜き工作を展開し、それに応じた多くの領主達は今川家を見限り、織田家や松平家に転じ、義元の跡継いだ今川氏真は怒りにより永禄5年(1562)に関口親永夫妻を自刃に追い込みました。築山殿と子供達は引き続き駿府に置かれ事実上今川家の人質でしたが、永禄5年(1562)に人質交換により岡崎に入りますが、岡崎城に入ることが許されず、城下町外れにある惣持尼寺に軟禁されました。

理由は不詳ですが、元信(家康)の生母である於大の方と嫁姑問題があったとも云われています。元亀元年(1570)、ようやく築山殿は岡崎城に入りましたが、同年、家康は本拠を岡崎城から浜松城静岡県浜松市)に遷し、築山殿と信康は岡崎城に留められています。数年後、信康の正室である徳姫(織田信長の娘)は娘を2人儲けたものの男児に恵まれなかった事から、築山殿は旧武田家家臣だった浅原昌時や日向時昌の娘を側室として斡旋、それが原因かは判りませんが次第に不仲となり、天正7年(1579)、徳姫は実家である織田家宛てに「十二ヶ条の訴状」を送っています。

その内容は概ね、信康と築山殿の誹謗中傷や両者が武田家(武田勝頼)に内通を画策したとするもので、徳川家の家臣である酒井忠次に弁明を求めたものの、有効な回答を得られなかった事から、事態を重く見た織田信長が、家康に信康の処刑を命じたとされます。同年、築山殿は家康から殺害の命を受けた野中重政が小藪村で殺害に至り、信康も二俣城で自刃しました。築山殿の享年は37歳。戒名:西光院殿政岩秀貞大姉(清池院殿譚月秋天大禅定法尼)。菩提は西来院(静岡県浜松市)に葬られ墓碑が建立されています(西来院には霊廟も建立されていましたが戦災により焼失しています)。

築山殿(瀬名姫・瀬名御前)については判らない事が多く、岡崎城に入れなかったのか?殺害理由など様々で、徳姫の「十二ヶ条の訴状」と呼ばれるものも原文がある訳でもありません。江戸時代に入ると、徳川家康の神格化や正当化などから真実を大きく捻じ曲げられた可能性もあり、一般的に云われている、織田信長が徳川家の優秀な跡取りを取り除き、家康の織田家への忠誠を図るため難癖をつけ、家康が泣く泣く従ったとは余りにも家康にとって都合の良い理由となっています。又、築山殿も殺害されるに値する悪女として印象付けられ、こちらも家康にとって都合の良い理由となっています。

それらを踏まえて、家康が複数居たという説が浮上し、今川家の人質時代と、その後の岡崎城城主時代の家康は別人だった事から、別家族である築山殿と信康を排斥したと考える人も現れました。又、家康は幼少期から人質として過ごし、特に今川家の人質時代には親今川家として洗脳教育が施され、当主である今川義元の姪にあたる築山殿が宛がわれている事から、思考的には今川家に近いと推察され、岡崎城で殆ど認識の無い松平家譜代の家臣に今川家からの独立の下知を発するのは極めて不自然とも考えられます。そこで、もう一人の家康が領内に潜伏し、家臣達と連絡を密にとり、織田家からのの協力を得ながら長年今川家からの独立を画策していたとも考えられます。当然、記録等に残されている訳ではありませんので通説を覆すまでには至っていません。

その中でも、最もと興味深いのが、通史では徳川家康の同父異母で、家康と同年同日同時刻に生まれた樵臆恵最という人物です。通史的には恵最の生母は大給松平家松平乗正の娘「於久の方」で松平広忠(家康の父親)の側室として松平忠政と恵最が産まれ、天文10年(1541)広忠が15歳、於久の方が40歳前後、於大の方の岡崎城輿入れの際に桑谷村に移り住んだとされます(恵最は桑谷村で出産)。

上記のように、年の差が25歳前後もある女性を側室として迎えるのは不自然で、家康と恵最がと同年同日同時刻に生まれたとある事から、於大の方は「双子」を産み、その片方を「於久の方」が育てたとし、織田、今川家に人質に出したのは恵最の方だったとの説があります(当然そうなると松平忠政も血縁上は家康とは無関係)。そうなると、築山殿は恵最の方に嫁ぎ、その事実を知られぬように家康によって殺害が命じられた事になります。桑谷村には広忠の菩提を弔う広忠寺が創建され、恵最が開山者となり住職として生涯を全うしたとも、度々家康の影武者として利用されたとも云われ、死没年や死因などは伝わっていないそうです。

西来院:写真
築山殿(瀬名姫・瀬名御前)と縁がある西来院 築山殿(瀬名姫・瀬名御前)と縁がある西来院 築山殿(瀬名姫・瀬名御前)と縁がある西来院 築山殿(瀬名姫・瀬名御前)と縁がある西来院



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