相良城(牧之原市)概要: 相良城の築城年は不詳ですが天永3年(1112)、当地の地頭に就任した相良氏が居館として築いたのが始まりとされます。建久4年(1193)に相良氏が九州に移封になると荒廃しますが、天正4年(1576)頃高天神城の支城の1つとして武田勝頼が改めて築城しています。相良の地は相模湾に面し萩間川河口に位置した海上交通の要所で海上から物資を集め相良城から高天神城に兵糧を運ぶ拠点の1つとなっていました。天正9年(1581)、高天神城が徳川家康により攻略されると相良城も接収され、武田家が滅亡後の天正14年(1586)には相良御殿を設けて鷹狩りで利用しました。
江戸時代に入ると天領になりましたが宝永7年(1710)、本多忠晴が1万5千石で入封し相良藩を立藩、城主格ではなかった為、陣屋構えとして整備され相良藩の藩庁が設けられました。延享3年(1746)、3代本多忠如が泉藩(福島県いわき市)に移封となり、泉藩から板倉勝清が1万5千石で入封、寛永元年(1748)に2万石となり城主格になったものの、寛永2年(1749)に安中藩(群馬県安中市)に移封、代わって本多忠央が挙母藩(愛知県豊田市)から1万石で入封しますが宝暦8年(1758)に改易となります。
田沼意次は1万石で入封しますが、10代将軍徳川家治の下で才能を発揮し5万7千石を領するようになり、相模城も時の権力者の居城として大改修され、安永7年(1778)壮大な相良城が完成されました。田沼意次が失脚すると政敵だった松平定信の粛清にあい相良城は廃城となり短期間の内に破却され、相良藩も廃藩になっています。文政6年(1823)に意次の4男田沼意正は1万石で入封を許され相良藩を再度立藩し3代続いて明治維新を迎えています。
明治時代以降は陣屋も破却され本丸は市役所や、相良城史料館、二ノ丸は相良小学校、三ノ丸は相良高等学校となり大部分の城域は市街地になっています。遺構としては二ノ丸土塁の一部が残り、御殿の一部が大慶寺に移築され庫裏として利用されています。
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