牧之原市(歴史)概要: 牧之原市は古くから開けていた地域で、宮下遺跡では平安時代後期の建物跡と南北約35メートル、東西20メートル以上、最大深さ約1・7メートルの楕円形の園池、中島が発見されています。形状や規模が同時期の柳之御所遺跡(岩手県平泉町)と酷似していることから当時の牧之原市には有力豪族が存在していたとも、発掘された遺物の中にには祭祀で使用されたと思われる墨書土器が多数発見されていることから宗教的な施設だったとも云われています。
中世に入ると勝間田氏や相良氏などの国人領主が割拠しましたが、南北朝の動乱後、相良氏は本拠を九州に移し、勝間田氏は遠江、駿河の守護となった今川氏に対抗し文明8年(1476)に滅ぼされています。桶狭間の戦いで今川義元が討ち取られると武田信玄が駿河に侵攻し、牧之原市では滝堺城の築城や相良城、勝間田城の改修などを行ない遠江にまで勢力を広げます。長篠の戦後は徳川領となり天正14年(1586)には相良御殿を設けて鷹狩りなどで利用しています。
江戸時代に入ると天領になりましたが宝永7年(1710)、本多忠晴が1万5千石で入封し相良藩を立藩、延享3年(1746)、3代本多忠如が泉藩(福島県いわき市)に移封となり、泉藩から板倉勝清が1万5千石で入封します。勝清は寛永2年(1749)に安中藩(群馬県安中市)に移封になりると、代わって本多忠央が挙母藩(愛知県豊田市)から1万石で入封しますが宝暦8年(1758)に改易となります。その後、田沼意次が1万石で入封、10代将軍徳川家治の下で才能を発揮し5万7千石を領するようになり、相模城も時の権力者の居城として大改修され、安永7年(1778)壮大な相良城が完成されました。田沼意次が失脚すると政敵だった松平定信の粛清にあい相良城は廃城となり短期間の内に破却され、相良藩も廃藩になっています。文政6年(1823)に意次の4男田沼意正は1万石で入封を許され相良藩を再度立藩し3代続いて明治維新を迎えています。
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