高天神城(掛川市)概要: 高天神城の築城には諸説ありますが治承4年(1180)、渭伊隼人直孝が山砦を築いたのが始まりとされます。又、明応年間(1492〜1501年)に今川氏が遠江の斯波氏の押さえとして城郭として整備したとも云われています。
戦国時代は「高天神を制する者、遠州を制す」とも言われ、軍事的最重要拠点の1つとして何度も攻防戦が繰り広げられました。当時は今川氏の持城でしたが、桶狭間の戦いで今川義元が打たれ衰退すると徳川家康が進出し高天神城を摂取します。
元亀2年(1571)、武田信玄が遠州に侵攻すると高天神城が主戦場となり2万5千の兵で取り囲まれましたが城将である小笠原長忠がよく守り、膠着状態が続き退却に追い込んでいます。信玄の死後、武田家を継いだ武田勝頼は天正2年(1574)に遠州に侵攻し2万の兵が高天神城を取り囲み、籠城戦は1ヶ月に及びますが家康の援軍も無く落城しています。
天正3年(1575)、長篠の戦で武田軍が徳川・織田連合軍に大敗すると、武田氏は急速に衰退し、この機を乗して家康は遠州に侵攻し天正6年(1578)には横須賀城を築城するなど「六砦」を設け高天神城を包囲します。
天正8年(1580)には高天神城の城将岡部元信は躑躅ヶ崎館(山梨県甲府市)の武田勝頼に援兵を要請しますが、武田領は織田、北条両大名に囲まれ身動きが採れませんでした。天正9年(1581)、意を決した岡部真幸は討って出ますが、尽く討ち死にし千人余りの城兵も3百程になり終に落城します。
高天神城が落城後は横須賀城が軍事的拠点となった為、廃城となっています。高天神城の城跡は現在も郭の形状や土塁、堀切、空堀などの遺構が残り、歴史的にも大変貴重な事から昭和50年(1975)に国指定史跡に指定されています。
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