【 概 要 】−源応尼(於富の方)は江戸幕府初代将軍に就任した徳川家康の祖母とされる人物で、家康が幼少時に今川家の人質だった時代に身の回りの世話や教育を施したとされます。源応尼(於富の方)の出生は不詳で青木加賀守弌宗の娘や、宮の善七の娘、大河内左衛門佐元綱(寺津城の城主)の養女、大河内但馬守満成の娘など諸説あります。又、異説としては徳川家康影武者説を唱えた村岡素一郎によると源応尼(於富の方)は「ささら者(賤民)」だったとしています。
それによると天文11年(1542)、源応尼(ささら者)と七右衛門(ささら者)との娘である於大(ささら者)と下野国都賀郡小野寺村出身の江田松本坊(新田氏嫡流で時宗の祈祷僧)との間に生まれたのが後に家康と名乗る国松で、幼少期は源応尼(於富の方)によって育てられたそうです。一般的には刈谷城(愛知県刈谷市)の城主である水野忠政の継室として於大の方を産んだとし、その後、岡崎城(愛知県岡崎市)の城主である松平清康が水野忠政を破った際に戦利品として松平家に入ったそうです(忠政と於富の方の子供である水野忠重は天文10年:1541年に生まれ、清康が天文4年:1535年に死没している事から、清康と於富の方は再婚していないとされます)。
その後、星野備中守秋国、菅沼藤十郎定望、川口文助盛祐(大橋定安の弟、於富の方の間に川口宗吉が産まれています。宗吉は永正17年:1520年に生まれている事から疑問が感じられます。)に嫁いだとされ、盛祐に先立たれると出家し、今川義元を頼って駿府に入り、宮の前町(現在の静岡市日吉町)に庵室を設けたとされます(養育係として岡崎から招かれたとも。※村岡素一郎によると宮の前町は「ささら者(賤民)」が群居する町で身分の高い竹千代(家康)が養育された場所とは考えにくいとしています)。
永禄3年(1560)に死去(「松平記」では刑死)。戒名:華陽院殿玉桂慈仙大禅尼。菩提寺は知源院と号していましたが、源応尼の戒名から「華陽院」に改めています。華陽院(静岡県静岡市)の境内には源応尼の墓碑が建立されています。
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