【 概 要 】−西郷局は徳川家康の側室、2代将軍徳川秀忠の生母で、天文21年(1552)に戸塚忠春(今川家家臣)と西郷正勝の娘との間に生まれ於愛と呼ばれました。忠春は天文23年(1554)に駿河国での北条氏康軍との「大森の戦い」で討死すると、於愛の母親は服部正尚と再婚します。於愛は服部家で育てられ従兄の西郷義勝と結婚して2児(一男一女:勝忠は2代将軍徳川秀忠の異父兄ではありましたが、後に紀州の徳川頼宣に仕えています。)を儲けましたが、義勝は徳川家康に従い元亀2年(1571)に竹広合戦で討死し、於愛は実家である服部家に戻っています。
徳川家康が服部家を訪れた際、於愛を見初めましたが、実親である戸塚忠春が今川家の家臣だった事から義勝の叔父にあたる西郷清員に一端養女とした上で、天正6年(1578)於愛27歳の時に浜松城(静岡県浜松市)に出仕し家康の側室となっています。家康の数いる側室の中で最も美しく寵愛を受け、翌、天正7年(1579)には後に2代将軍となる徳川秀忠、天正8年(1580)には後の尾張藩主となる松平忠吉を出産しています。天正14年(1586)に家康と共に駿府城に入り、天正17年(1589)に死去。享年38歳。
菩提は竜泉寺に葬られ法名「宝台院殿一品大夫人松誉定樹大禅定尼」から宝台院に改めてられ、秀忠が将軍に就任した後の寛永5年(1628)に正一位が贈られ、盛大な葬儀が行われています。西郷局の死因は長年の苦労が重なり疲労からくる病死とされますが、一説には西郷局とは逆に徳川家から排斥された上で殺害された正室築山殿の侍女が恨みと妬みから毒殺したとも云われています。宝台院の境内には西郷局之墓が残され静岡市指定文化財に指定されています。
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