【 概 要 】−田沼意知は寛延2年(1749)に遠江国相良藩(静岡県牧之原市相良・藩庁:相良城)の藩主田沼意次と黒沢定紀の娘との嫡男として生れました。天明元年(1781)に奏者番、天明3年(1783)に若年寄などの要職を歴任し将来を嘱望されました。又、父親である意次も老中を担っていた事から、田沼家で幕政の中枢を牛耳ているように見られ、多くの政敵がいたとされ、天明4年(1784)3月24日に江戸城の城内で佐野政言に切り付けられ4月2日にその傷が元で死没しています。
大目付である松平忠郷が政言を取り押さえ、目付である柳生久通が凶器となった脇差を摂取したとされますが、周囲に居た多くの人達は政言の行為を黙認した為、意知の傷の処置が遅れ、死因の1つになったとされます。享年35歳。政言は狂乱として罰せられ4月3日に切腹となり、本来、佐野政言の行為は御家断絶にも値するはずでしたが、実際は切腹という武士としても面目が保たれています。結果的に意知が死去し、意次が失脚している事から、当然、幕政を巡り田沼家の政敵が黒幕の可能性が高いはずですが、全く触れられず政言の狂乱だけで片付けられています。
田沼政治は有力商人の財力を大きく利用したものであった事から、多くの政敵や庶民はその関係性を疑い、当然賄賂などのやり取りがあるとして、意知の暗殺は喜ばしい行為として受け入れられました(意知の葬列には罵声が浴びされ、逆に政言は世直し大明神として讃えられ菩提が葬られた浅草本願寺地中徳本寺には多くの参拝者が訪れたと云われています)。
逆にオランダ商館長イサーク・ティチングは意知を高く評価し、将来幕府を担い開国政策を推し進め経済的に豊かに出来るだけの才覚があったと評しています。田沼家の領内菩提寺である平田寺(静岡県牧之原市)には田沼意知の供養塔が建立されています。
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