今川義忠:概要

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概要・歴史・観光・見所
今川義忠(正林寺)

【 概 要 】−今川義忠は永享8年(1436)に駿河今川氏6代目当主である今川範忠の子供として生まれています。嘉吉3年(1441)に発生した嘉吉の乱に際には範忠の代わりに尾張国まで侵攻、康正2年(1454)に発生した享徳の乱の際には範忠の代わりに足利成氏討伐の為に鎌倉まで進軍し、その功により8代将軍足利義政から感状を賜っています。寛正2年(1461)には病床に付いた範忠に変わり駿河国守護職を就任、応仁元年(1467)に発生した応仁の乱では東軍にとして行動しています。

応仁2年(1468)、室町幕府管領で東軍の総大将である細川勝元の命により今川義忠は一端駿河に帰って体制を整え遠江国に侵攻し、西軍だった遠江守護職斯波義廉の討伐を行います。室町時代初期には遠江守護職は今川家が担っていた事から、今川家にとって斯波氏討伐は念願で、今川軍の士気は高く領内深く侵攻しました。しかし、文明3年(1471)に、義廉は守護職を斯波義良に譲り、義良が東軍に属していた事から膠着状態となりました。

文明5年(1473)に義忠が遠江国掛革荘(掛川市)の代官職に就任し東軍に属していた三河守護職である細川成之を支援すると、斯波義良は快く思わず、翌、文明6年(1474)には守護代の狩野宮内少輔に命じて戦となり、義忠はそれに応じて討ち取ってしまいます。この行為は東軍の中で問題視され、東軍の横地城静岡県菊川市東横地)の城主横地氏と勝間田城静岡県牧之原市勝田)の勝間田氏に義忠の追討を命じます。

両軍による激しい戦いが行われ勝利する事が出来ましたが義忠は塩買坂で横地氏の残党が画策した一揆に襲われ討死しました。享年41歳。法名:長保寺桂山宗公。菩提は跡を継いだ今川氏親が創建した正林寺(静岡県菊川市)に葬られ、正林寺の境内には今川義忠の墓碑(五輪塔)が建立されています。

正林寺:写真
今川義忠と縁がある正林寺 今川義忠と縁がある正林寺 今川義忠と縁がある正林寺 今川義忠と縁がある正林寺



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