【 概 要 】−松平定吉は天正13年(1585)に松平定勝と「たつ(奥平貞友の娘)」の長男として生れました。松平定勝は徳川家康の生母とされる「於大の方」と久松俊勝の4男である事から定吉から家康をみると叔父にあたります。慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでは徳川家康に従軍し、その功から慶長6年(1601)には従五位下遠江守に叙任し定勝と共に掛川城(静岡県掛川市)に入っています。
定吉は武芸の鍛錬だけでなく城下に境内を構える真如寺2世聚鯨和尚の下で学問を学び、文武両道を目指していたとされます。家康は末弟だった定勝を可愛がり、その息子である定吉も武芸に秀でていた事から「将来は関東の旗頭になれる人物」と評していたそうです。慶長8年(1603)に徳川家康が上洛の為に掛川藩領に差し掛かると、定吉は領内を無事に通過させる為に護衛を行いその夜に酒宴を開いたそうです。
すると、大鷺が酒宴の最中に現れ家康の前で羽ばたくと、事もあろうか家康の衣服が酷く汚され、そのまま飛び立ったので、定吉は近くにあった弓を取り大鷺を見事射落とし、自慢げにその大鷺を家康に献上しました。すると家康は、衣服が汚れた位で大騒ぎし、喜々として無益な殺生をするとは大将の器とは到底思えない。さらに、力を誇示するれば嫌味と思われ、射損じたら笑い者、ひいては徳川家、松平家の恥となり、何一つ得るものはない。これからは良く精進し徳川家、松平家を支える人物になって欲しいと優しく諭しました。
しかし、定吉は家康の真意を悟る事なく、自分の愚かさだけを責め掛川城の城内で自刃し、定吉を慕った20名の家臣も殉死しました。享年19歳。定勝は家康の真意を汲み取れなかった定吉の行為を表沙汰にする事が出来ず、密葬とし城下町の外にある目立たない当地に塚(遠江塚)を設けて葬ったと伝えられています(騒動が沈静化した、文和7年:1621年には定吉が帰依していた真如寺に正式な墓碑「為自照院殿前遠州大寺甲天英額大居士」が建立されています)。
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