【 概 要 】−井伊直勝は天正18年(1590)は井伊直政と唐梅院(花:徳川家康養女・松平康親の娘)の長男として生れました。直政は徳川家譜代の大名で、徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで大功を挙げ、敵方の有力武将だった石田三成の居城である佐和山城(滋賀県彦根市)が与えられ佐和山藩を立藩しています。しかし、慶長7年(1602)に関ケ原の戦いの傷が原因で直政が死去すると、幼少だった直勝が井伊家と藩主を就任しましたが、当地は中山道と北国街道を押さえる交通の要衝で、豊臣家に対しての軍事的拠点になり得る事から、徳川家からも家臣が派遣されました。
そのような中、彦根城の築城が幕府から命じられ、慶長11年(1606)に完成すると彦根城に移り彦根藩が立藩しています。直勝もある程度成長していましたが、井伊家古来の家臣と徳川家から派遣された家臣との対立が顕著となり、それをまとめるだけの器量がまだ整っておらず、慶長15年(1610)に幕府から派遣された家老木俣守勝が死去した事に伴った、直勝による人事がさらなる混乱を招きました。
徳川家康は井伊家家臣団を分断させ、譜代の家臣を直勝に付け安中領(群馬県安中市:3万石)に退かせ、本城である彦根城には弟である直孝を配して、幕府から派遣した家臣達で固めさせました。慶長19年(1614)の大坂の陣では戦働きがあった直孝が正式な彦根藩主に就任し、参戦出来なかった直勝は事実上廃嫡され安中藩主に留めました。理由は不詳ですが本来初代彦根藩主だったた直勝の実績を彦根藩は抹消し、直孝が初代藩主として書き換えられ、直勝はあくまで井伊家の分家の初代という位置づけとなりました。
直勝は安中藩の発展に尽力し寛永9年(1632)に隠居して嫡男である井伊直好に家督と藩主を譲り、直好が正保2年(1645)に三河西尾藩(愛知県西尾市)、万治2年(1659)に遠江掛川藩(静岡県掛川市)に移封になるとそれに従い、寛文2年(1662)に掛川城の城内で死没しました。菩提寺は可睡斎(静岡県袋井市)で可睡斎の境内には墓碑が建立されています。
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