【 概 要 】−畠山国清は鎌倉時代末期の倒幕運動で足利尊氏に従い、尊氏が後醍醐天皇の対立し北朝を建てると、北朝方の有力武将として各地に従軍し、和泉国・紀伊国・河内国守護職を担いました。観応の擾乱(1349〜1352年)では足利直義に与し京都から離れ守護職を失職しましたが、その後、尊氏方に転じ復権を果たしています。観応3年(1352)に伊豆国守護職に就任、文和2年(1353)に関東管領が設置されると、その職務に就く事で鎌倉公方足利基氏を補佐し、延文2年(1357)には武蔵守護に就任しています。
延文3年(1358)に尊氏が死去すると、南朝方が鎌倉を目指して大攻勢をかけ、その迎撃にあたった国清は南朝方の有力武将だった新田義興を攻めたて多摩川の矢口の渡しで謀殺しています。延文4年(1359)、政敵だった仁木義長を細川清氏や土岐頼康などと協力して排斥する事に成功しましたが、延文5年(1360)に2代将軍足利義詮と細川清氏が対立した事で、盟友だった国清も政治的な立場を失い、康安元年(1361)には対立してた武将達から国清の罷免の嘆願書が提出されると完全に失脚しています。
自領である伊豆国では復権をかけて反乱を起こしましたが、拠点である修禅寺城が落城すると降伏し貞治元年(1362)、又は貞治3年(1364)に死没したとされます(基氏に降伏した際、出家しましたが、暗殺の恐れがあるとして南朝に転じて復権を目指しましたが南朝方の楠木正儀の反対により復権出来ず奈良で死没したとも云われています)。畠山国清が創建したと伝わる国清寺(静岡県伊豆の国市)の境内には国清の墓碑が建立されています。
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