掛川城(別名:雲霧城・松尾城)

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概要・歴史・観光・見所
掛川城(別名:雲霧城・松尾城)概要: 掛川城は文明年間(1469〜1486年)、当時の駿河守護今川義忠が重臣である朝比奈泰煕に命じて築かせたのが始まりとされ、永正9年(1512)に、朝比奈泰能が主郭部を南西部に移し、大改修を行いました(当初の掛川城を掛川古城という場合もあります)。桶狭間の戦いで今川義元が討死にすると今川氏は急速に衰退し、徳川家康が遠州に侵攻します。駿府城が落城すると今川氏真は掛川城に籠もり家康に対しますが、氏真の保護を条件に開城しています。その後、徳川家家臣の石川家成が城将となり、家康が関東に移封後は豊臣秀吉の子飼が城主を歴任し、天正18年(1590)には長浜城(滋賀県長浜市)から山内一豊が6万石で入封します。一豊は掛川城を近代的に大改修し城下町の計画にも尽力しますが、慶長5年(1600)関が原の戦いで東軍として行動し功績を挙げた為、慶長6年(1601)に土佐高知に加増移封します。

代わって松平定勝が3万石で入封し掛川藩を立藩、江戸時代初期は藩主がめまぐるしく変わり、2代定行が元和3年(1617)に桑名藩(三重県桑名市)に移封になると安藤直次が2万8千石で入封、紀伊田辺藩(和歌山県田辺市)に移封になると下妻藩(茨城県下妻市)から松平定綱が3万石で入封、寛永9年(1632)に定綱が改易になると、青山幸成が2万6千石で入封、寛永12年(1635)に幸成が尼崎藩(兵庫県尼崎市など)に移封になると、田中藩(静岡県藤枝市)から松平忠重が4万石で入封、2代忠倶が飯山藩(長野県飯山市)に移封になると本多忠義が7万石で入封、忠義が正保元年(1644)に村上藩(新潟県村上市)に移封になると田中藩から松平忠晴が3万石で入封、忠晴が慶安元年(1648)に亀山藩(京都府亀山市)に移封になると田中藩から北条氏重が3万石で入封、万治元年(1658)、北条家が改易になると西尾藩(愛知県西尾市)から井伊直好が3万5千石で入封、宝永2年(1705)に4代直矩が与板藩(新潟県長岡市)に移封になると松平忠喬が飯山藩(長野県飯山市)から4万石で入封、忠喬が正徳元年(1711)に尼崎藩(兵庫県尼崎市など)に移封になると小笠原長煕が岩槻藩から6万石で入封、3代長恭が延享3年(1746)に棚倉藩(福島県棚倉町)に移封になると、館林藩(群馬県館林市)から太田資俊が5万石で入封、太田家は7代にわたり藩主を歴任に明治維新を迎えています。

掛川城は龍頭山に築かれた梯郭式の平山城で本丸を中心に天守閣のある天守丸、二ノ丸、三ノ丸、中の丸、竹之丸などがあり山内一豊の時代に程完成されました。明治2年(1869)に廃城となり多くの建物が払い下げとなり破却されましたが2之丸御殿や大手二之門(油川寺に移築)、太鼓櫓(三ノ丸から本丸に移築)、蕗ふきの門(円満寺に移築)、大手門番所などが残され御殿、大手二之門は国指定重要文化財、太鼓櫓、蕗ふきの門、大手門番所が掛川市指定有形文化財に指定されています。

【 掛川城蕗の門:概要 】-蕗の門は江戸時代末期の安政元年(1854)の発生した安政東海地震で倒壊した後に建てられたもので、掛川城の大手筋の三ノ丸に入る手前に当たる位置に配された門です。向かって右側には内堀となる蓮堀、門を入った正面右斜めには三ノ丸に設けられた鉄砲櫓が控え、直角の道筋沿い正面には櫓門の玄関下門(現在、油川寺の山門として移築。)が配されていました。大手門は掛川城の象徴的な存在であると共に町人町と武家町を区切る要素が強く、武家町と城内は蕗の門によって区切られていた事から重要視されていたと思われます。掛川城は明治2年(1869)に廃城になった為、多くの建物は払い下げとなり、明治5年(1872)に円満寺が山門として買受て現在地に移築されました。形式は切妻、桟瓦葺、一間一戸、四脚門、貴重な事から昭和48年(1973)3月28日に掛川市指定文化財に指定されています。

【 掛川城大手門番所:概要 】-掛川城の大手門は町人町と武家町(侍町)を隔てる重要な門で、不審者は元より、町人や農民等身分が低い者は勝手に城内に入る事が許されませんでした。大手門番所は、大手門を出入りする人物改めや荷物改めを行った施設で、城の重要な機能を持ちながら建物的には簡易な為、保存意識が低く見積もられ現存する遺構が極めて少ないとされます。掛川城は江戸時代末期の安政元年(1854)の発生した安政東海地震で多くの建物が倒壊し大手門番所も大破しましたが、安政6年(1859)には再建されました。掛川城は明治2年(1869)に廃城となり、明治4年(1871)に廃藩置県が行われると多くの建物は払い下げとなり大手門番所は静岡藩士だった谷庄右衛門が買受、居宅として利用されていました。昭和53年(1978)、谷家から寄贈された事を受けて保存の機運が高まり昭和55年(1980)に掛川市指定文化財に指定され、平成7年(1995)に現在地に移築されています。形式は木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺き、平入、外壁は真壁造り、白漆喰仕上げ、正面下屋庇付、貴重な事から昭和55年(1980)8月20日に掛川市指定文化財に指定されています。

【 掛川城太鼓櫓:概要 】-太鼓櫓とは櫓内部に太鼓を設け、城内や城下に時刻を知らせる施設で、様々な形式があるものの時刻を知る事は日常生活にとって大切な事なので城郭内部や城下町に設置されていました。掛川城の場合は三之丸に設けられていましたが、江戸時代末期の安政元年(1854)の発生した安政東海地震で大破し、その後再建されました。掛川城は明治2年(1869)に廃城となり、明治4年(1871)に廃藩置県が行われると多くの建物は払い下げとなり、太鼓櫓も民間の手に渡り数度持ち主が変わり、昭和30年(1955)、二之丸にあった荒和布櫓の場所に移築されました。建物は木造2階建て、入母屋、桟瓦葺き、腰壁は下見板張り縦押縁押え、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、貴重な事から昭和35年(1960)5月31日に掛川市指定文化財に指定されています。

【 掛川城玄関下門:概要 】-油山寺(静岡県袋井市村松)の山門は棟札から江戸時代初期の万治2年(1659)の建築である事が明確で当時の城主井伊直好によって造営されました。大手二之門と呼ばれ、二之丸、三之丸を結ぶ丁度接点に配されていますが、大手一之門とはかなり離れており何故「大手」を冠に掲げているのかは不詳?確かに大手筋にはありますが、一之門との間には蕗の門もあり2番目にある門という訳でもないようです。その為、二之丸御殿入り口からやや下った場所にある事から「玄関下門」や「玄関下御門」などの別称があるようです。

掛川城は江戸時代末期の安政元年(1854)の発生した安政東海地震で多くの建物が倒壊しその後再建されたものですが、大手二之門は江戸時代中期の享保18年(1713)に藩主小笠原長煕によって修理が行われているものの、江戸時代初期の姿を留めており大変貴重な存在と言えます。掛川城は明治2年(1869)に廃城となり、明治4年(1871)に廃藩置県が行われると多くの建物は払い下げとなり、大手二之門は明治6年(1872)に第7代掛川藩主太田資美の寄進によって祈願所だった油山寺の山門として移築される事になりました。形式は櫓門、二重入母屋造、本瓦葺(棟両端鯱付)、塗屋造(大壁造)、白漆喰仕上、桁行9.3m、梁間4.6m、上層部は25畳、下層部片側潜門付、大変貴重な事から昭和29年(1954)9月17日に国指定重要文化財に指定されています。

掛川城:写真

掛川城
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