掛川市(歴史)概要: 掛川市の都市的な始まりは文明年間(1469〜1486年)、当時の駿河守護今川義忠が重臣である朝比奈泰煕が掛川城を築城したのが始まりとされます。掛川市は遠江国と駿河国との国境線に近接していた為、軍事的にも重要視され戦国時代には掛川城や高天神城が度々攻防戦が繰り広げられ、特に高天神城は「高天神を制する者、遠州を制す」とも言われました。桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討ち取られると、今川家から独立した徳川家康が遠江に侵攻し永禄11年(1568)には高天神城、永禄12年(1569)には掛川城を奪取します。
同じく駿河に侵攻した武田家と国境を接する事となり、天正2年(1574)には武田勝頼により高天神城を奪われます。長篠の戦で武田勝頼が織田、徳川連合軍に大敗すると武田家は急速に衰退し天正9年(1581)には高天神城が徳川方により落城しています。家康が関東に移封後の掛川市は豊臣秀吉の子飼大名が領主を歴任し、天正18年(1590)には長浜城(滋賀県長浜市)から山内一豊が6万石で掛川に入封します。
関が原の戦い後は松平定勝が3万石で入封し掛川藩を立藩、江戸時代初期は藩主がめまぐるしく変わり、2代定行が元和3年(1617)に桑名藩(三重県桑名市)に移封になると安藤直次が2万8千石で入封、紀伊田辺藩(和歌山県田辺市)に移封になると下妻藩(茨城県下妻市)から松平定綱が3万石で入封、寛永9年(1632)に定綱が改易になると、青山幸成が2万6千石で入封、寛永12年(1635)に幸成が尼崎藩(兵庫県尼崎市など)に移封になると、田中藩(静岡県藤枝市)から松平忠重が4万石で入封、2代忠倶が飯山藩(長野県飯山市)に移封になると本多忠義が7万石で入封、忠義が正保元年(1644)に村上藩(新潟県村上市)に移封になると田中藩から松平忠晴が3万石で入封、忠晴が慶安元年(1648)に亀山藩(京都府亀山市)に移封になると田中藩から北条氏重が3万石で入封、万治元年(1658)、北条家が改易になると西尾藩(愛知県西尾市)から井伊直好が3万5千石で入封、宝永2年(1705)に4代直矩が与板藩(新潟県長岡市)に移封になると松平忠喬が飯山藩(長野県飯山市)から4万石で入封、忠喬が正徳元年(1711)に尼崎藩(兵庫県尼崎市など)に移封になると小笠原長煕が岩槻藩から6万石で入封、3代長恭が延享3年(1746)に棚倉藩(福島県棚倉町)に移封になると、館林藩(群馬県館林市)から太田資俊が5万石で入封、太田家は7代にわたり藩主を歴任に明治維新を迎えています。
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