臨済寺(静岡市)概要: 大龍山臨済寺の創建は享禄年間(1528〜1531年)、今川氏親が出家した栴岳承芳(今川義元)の為に生母北川殿(今川義忠の正室)の別邸跡に一宇を設けてたのが始まりとされます。当初は善得院と称していましたが天文5年(1536)に起こった家督争い(花倉の乱)で勝利した今川義元が先代で兄である今川氏輝の菩提を弔う為、太原崇孚雪斎(大休宗休の法弟)を招いて中興開山し氏輝の法名「臨済寺殿用山玄公」に因み寺号を臨済寺に改めています(開山は大休宗休:京都妙心寺霊雲院の僧)。
臨済寺は領主の菩提寺、天皇の勅願寺として寺運が隆盛し、天文23年(1554)には「歴代序略」を発刊し領内の臨済宗興隆にも大きな影響を与え当地方の臨済宗の中心的な寺院として発展しました。又、雪斎は豊富な知識を有していた事から今川義元の軍師として軍事や外交、政治などの相談、助言などを行い、徳川家康(当時の竹千代)が今川家人質時代には家康が教えを請い本堂には雪斎から学んでいた「お手習いの間」が残されています。
永禄11年(1568)、武田信玄の駿河侵攻より堂宇が焼失、さらに庇護者だった今川家の没落を招き、さらに、天正10年(1582)、徳川家康の駿河侵攻によりさらなる被害を招きました。正親町天皇は名刹だった臨済寺の荒廃を憂い新たに領主となった徳川家康に勅願し、それを受けて家康が境内の再建に尽力しています。江戸時代に入ると家康縁の寺院だった事から幕府が庇護し寺領100石が安堵されています。宗派:臨済宗妙心寺派。本尊:阿弥陀如来。
臨済寺の境内には廃寺となった今川家の菩提寺から墓碑が集められ「臨済寺今川家の墓所」として昭和37年(1962)に静岡市指定史跡に指定されています。臨済寺本堂は天正15年(1587)に再建されたもので、一重入母屋、こけら葺、平入、桁行11.5間、梁間8.5間、南西部に向唐破風、桧皮葺、桁行2間、梁間3間の玄関付、室町時代後期の寺院本堂建築の遺構として大変貴重な事から昭和58年(1983)に国指定重要文化財に指定されています。
臨済寺庭園は家康が再興した際に作庭されたもので、本堂背後の山腹の傾斜を巧みに利用した池泉回遊式庭園で東海地方有数の名園とされ昭和11年(1936)に国指定名勝に指定されています。山門は入母屋、銅板葺、三間一戸、八脚楼門、高欄付、徳川慶喜揮毫「大龍山」の扁額が掲げられ、浅間神社の楼門(現在の随神門)に安置されていた仁王像が明治時代初頭に神仏分離令により臨済寺山門に遷されています。
臨済寺の文化財
・ 本堂(附:玄関)−天正15年−入母屋、こけら葺−国指定重要文化財
・ 庭園−桃山時代−池泉回遊式庭園−国指定名勝
・ 絹本著色大休和尚画像−静岡県指定文化財
・ 千鳥図屏風(一双)−静岡県指定文化財
・ 鉄山釜−静岡県指定文化財
・ 鉄山和尚語録(4冊)−静岡県指定文化財
・ 臨済寺今川家の墓所−静岡市指定史跡
|