静岡浅間神社概要: 静岡浅間神社は静岡県静岡市葵区宮ヶ崎町に鎮座している神社で、浅間神社、神部神社、大歳御祖神社の3社の総称です。
神部神社は崇神天皇の御代(紀元前97年〜紀元前29年)に駿河国の開発神の御霊を勧請したのが始まりとされます(境内背後の高台には賤機山古墳が築造されており奏氏の祖神を祀ったとも云われています。)。古くから格式が高く寛平4年(892)に編纂された類聚国史によると従一位に列し延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳では式内社として記載され、平安時代には駿河国総社になったとされます。
浅間神社の創建は醍醐天皇の勅願により延喜元年(901)に富士山本宮浅間大社の分霊を勧請されたのが始まりとされ冨士新宮と称されました。
大歳御祖神社の創建は応神天皇4年(273)に勧請されたのが始まりとされます。当初は現在の静岡市本通一丁目付近に鎮座し、奈良時代には「安倍の市」と称する市が立ち商業の中心地として発展したことから大宝3年(703)に「安倍の市」の市神として信仰されるようになりました。その後、賤機山上に鎮座していた奈吾屋神社と合祀、延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳には式内社として記載され古くから格式の高い神社として崇敬されてきました。
歴代朝廷や領主、為政者から崇敬庇護され、室間時代時代以降は駿河国、遠江国の2国の守護職を担い駿府城(今川館)を本拠とした今川家の氏神として社殿の造営や社領の寄進、社宝の寄進がなされ事ある毎に祈願を行っています。武田信玄の駿河侵攻の兵火により社殿が焼失しますが天正7年(1580)にすぐさま社殿を再建され、新たに領主となった徳川家康が今川氏に人質になっていた時代、静岡浅間神社で元服式を行った関係で篤く崇敬し、天正9年(1582)に武田方の賤機山城攻略にあたり、戦勝祈願を行い、再建を条件に社殿を破却しています。家康が駿河を平定すると社殿を造営し、さらに家康が駿府城を隠居城として定め大御所として入府すると篤く庇護し幕府の祈願所にも定められました。3代将軍徳川家光も踏襲し寛永11年(1635)には社殿を再整備し、文化元年(1804)には火災で焼失した社殿群を巨費を投じて再建し、社領も2313石が安堵され特別視されました。
貞享元年(1684)、貝原益軒によって編纂された吾妻路之記によれば国内の社殿の中で日光東照宮(栃木県日光市)に次ぐのが静岡浅間神社とし、古くから「東海の日光」と称されていました。古くから神仏習合していましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色が一掃され、境内にあった薬師堂が少彦名神社に摩利支天社が八千戈神社に社号が改められ、明治6年(1873)に神部神社、浅間神社、大歳神社は県社、明治11年(1878)に国幣小社に列しています。
現在も静岡浅間神社境内には古社殿が数多く現存しており神部神社浅間神社本殿、中門(2棟)、透塀(3棟)、拝殿、舞殿、楼門、回廊(2棟)、総門、神厩舎、宝蔵、、境内社麓山神社の本殿、中門、透塀、拝殿、境内社八千戈神社の本殿、中門、透塀(2棟)、境内社少彦名神社の本殿、以上全23棟が名称「神部神社浅間神社23棟」、さらに大歳御祖神社の本殿、中門、透塀、全3棟が名称「大歳御祖神社3棟」として江戸時代を代表する社殿建築の遺構として大変貴重な事から国指定重要文化財に指定されています。祭神:神部神社:大己貴命(配祀:瓊瓊杵命、栲幡千千姫命、東照神)、浅間神社:木之花咲耶姫命(配祀:瓊瓊杵命、栲幡千千姫命)、大歳神社:大歳御祖命(配祀:雷神)。
静岡浅間神社の社殿以外の文化財
・ 太刀(銘長船住人長光)-徳川家康奉納-国指定重要美術工芸品
・ 紅糸威腹巻-今川義元が家康に与えたもの-静岡県指定文化財
・ 家光公奉納御神服調度品類(静岡浅間神社古神宝類:30件)-静岡県指定文化財
・ 三十六歌仙懸額(18面)-寛永11年-狩野探幽作,家光奉納-静岡県指定文化財
・ 三十六歌仙図額(36面)静岡県指定文化財
・ 静岡浅間神社廿日会祭の稚児舞-静岡県指定無形民俗文化財
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