久能山東照宮(静岡市)概要: 徳川家康は遺言として「久能山の埋葬」、「増上寺(東京都港区)の葬儀」、「大樹寺(愛知県岡崎市)の位牌安置」、「一周忌後、日光(栃木県日光市)の御堂建立と勧請」を示しました。元和2年(1616)、家康が死去すると2代将軍徳川秀忠は遺言に従い、この地に遺骸を埋葬すると、すぐさま社殿の造営を始め、初代京都大工頭中井正清を筆頭に多くの職人や技術者が集められ元和2年(1616)から元和4年(1618)、約1年7ヶ月に掛けて多くの社殿、堂宇が造営されました。特に本社社殿は本殿、拝殿、石ノ間が接続し一体となっている所謂「権現造」でこの後、造営される日光東照宮はじめ全国の東照宮の規範となっています。
何故、家康が遺言で久能山に葬る事を記したのかには諸説ありますが、元々この地は補陀落山久能寺(推古時代に久能忠仁が創建したと伝えられています。)があった聖地だった事や、久能山が駿府城の最大の防衛拠点で、戦国時代には武田三名城の1つとされる久能山城が築かれたことから駿府城の守護神となる事などが挙げられます。
又、久能山東照宮と富士山の山頂、日光東照宮が直線で結ばれている為、富士山を越した事で不死(富士)となり、江戸城と北極星を結んだ直線上にある日光で江戸の守護神になるという壮大な説を唱える人もいます。何れにしても一周忌を迎えると久能山から日光に遺骸が移されますが、家康の祖廟としてその後も重要視され榊原家が久能山総門番として代々久能山東照宮を管理します(諸説あり、秀忠は遺言通りに御霊のみを日光に遷座し、遺骸は久能山にあるという説もあります)。
3代将軍徳川家光も久能山を重要視し、五重塔(明治6年解体)や神廟(徳川家康の廟:高さ5.5m、周囲8mの石塔)など多くの堂宇、社殿を造営し庇護しています。一ノ門を潜ると門衛所で人物改めが行われ、境内に入る行為を厳しく管理され聖域としての尊厳を保ち、多くの大名が石燈籠や絵馬などを多数寄進しています。
創建当時から天台宗の大僧正天海が深く関わり神仏習合の形態を持っていましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令とその後の廃仏毀釈運動により仏式が廃され、久能山東照宮では本地堂が日枝神社に鐘楼が鼓楼に、五重塔は破却され、明治6年(1873)に県社、明治21年(1888)に別格官幣社に列しています。現在でも創建当時の建物が多数現存し、本殿、拝殿、石ノ間が国宝に指定されている他、唐門、東門、廟門、渡廊、日枝神社、楼門、神楽殿、鼓楼、神厩、神庫、廟所宝塔、神饌所などが国指定重要文化財に指定されています。祭神:徳川家康。配祀:豊臣秀吉、織田信長。
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